私の回想録
今、世界全体が凄い勢いで変わろうとしている事は確かだ。 私がモータースポーツ写真家として出発した 1966 年を皮切りに、私の 1960 年代をもう一度振り返って見る事が必然であると思った。
私がヨーロッパに向けて旅たった 1967 年は、夢を現実に出来る時代だった。
その 60 年代を振り返って見ると日本は高度経済成長を迎えていた。
私の学生時代は、勉強に集中すると言うよりも、むしろ自分の進むべき道を探していたと言っても過言ではなかった。
幸いにも、学習研究社でアルバイトをしながら、写真撮影のイロハを見習っていた。
しかし、時には、バイク好きの学生仲間と神宮外苑内を夜中にタイムを計りながら突っ走ったこともあった。 アルバイトの報酬で金銭的に恵まれていただけでなく、良い先輩諸氏に出会えた。 学生の身分と言う事で、フィルムと現像代はほとんど大目に見てくれていたので、カメラ雑誌やバイク誌の写真コンテストに奮って作品を応募し、バイク誌の方では賞金を獲得していた時期もあった。
バイクの人気が経済の発展と共に車に移行した時などは、我が家にプリンス・グロリアがあったので、兄弟で素質があるかどうかの腕試しに、第一回の日本アルペン・ラリーに出場、完走を狙ったものの途中台風の影響でイベントは中止、無念と言うよりも命がけのスピードとの戦いから脱出したと言う開放感、やはりレーサーには無縁と悟った。
1959 年、ホンダ技研工業のマン島 TT レース参戦が正式に決定された。
平和の時代を迎えた日本は、ホンダが真っ先になって先進技術の開発とバイク・レース場でのスピードの限界に挑んだ事は、我々若者ばかりでなく、日本中の人々に大きな衝撃を与えると同時に夢をもたらした。 ホンダ技研は創始者、本田宗一郎の無謀とも思える行動を実践したのだった。
1961 年、大学を卒業すると同時に早田雄二フォト・スタジオの門下生になりスタジオアシスタントの修業に徹して、流行最先端の場でほぼ一年近く写真家としての基本と心構えを学んだ。 その後は、学習研究社の編集部付嘱託カメラマンとして戻ったが嘱託カメラマンとは、身分不安定の今で言うフリーター的存在だった。 この間、私にとって絶好の機会にも何度か遭遇した。 世界一流の写真家、カルティエ・ブレッソンの「決定的瞬間」展、そして「マグナム写真家集団」展などにはひどく感動した。他にも、欧米の評価の高い写真展が東京で開催されるたびに必ず会場通いをして、自分の意欲を高めていた。 ドイツの写真家、ホルスト・ H ・ボウマンの写真集「ザ・ニュー・マタドールズ」などは、正にモータースポーツ写真家を目指す私の為の教科書的存在だった。
1966 年春、富士スピードウエイが創設された。
これを記念して同年
10 月アメリカン・モータースポーツの最高峰と言われる Indy 200 mile race が富士スピードウエイで開催された。 この時、学習研究社編集部に在籍していた為、私にも取材パスが許可されて思いがけない機会に恵まれた。
エキゾチックで熱狂的なレース、それにドライバーの熱い視線、中でも特に私と同年代、 26 歳の Jackie Stewart に強烈な印象を受けた事は疑いの余地も無かった。 モータースポーツ史のある先進国とは計り知れない大差がでて当然、しかも本物の気構えはどこか違っていた。
私はこの取材の帰路、交通混雑を避け、悪路の明神峠越えのルートを選んだ。 峠の頂上から見下ろした巨大な富士スピードウエイ、ここまで漕ぎつけた自分の写真家としての挑戦を更に広める為、ヨーロッパ行きを決断したのだった。
私がヨーロッパ行きを決断した頃、印刷業界は日本経済発展のあおりを受けて、印刷技術が急激に向上して、カラーグラビア時代を迎えた。 特に、一眼レフカメラに関しては各カメラ会社が争って新型を開発した。 そんな折、私のような嘱託カメラマンにも責任ある仕事が次々と任されるようになり、写真界も東京オリンピック開催の前後から大きく変化していった。 又、欧米との交流関係も一気に盛んになり、日本は新しい写真文化の時代を迎えようとしていた。
私のヨーロッパ取材資金もかなり厳しかったが、幸いにも使い慣れた最新型のニコン F2 、二台とワイドから望遠レンズ一式を確保していたので、機材に関しては心配無用だった。
当時日本では、海外旅行一人当たり外貨の持ち出しは、 500 ドルと制限されていた。その結果、イギリスで買う予定であった小型車を断念して、 1966 年の秋に発売され購入したばかりのトヨタ・カローラを持ち出すことにし、全工程の経費節約に当てた。
1967 年2月、先に車を送る手配をして横浜港より出荷させ、私も一ヶ月以内に車の後を追うようにソビエトの客船で横浜港より旅立った。
当時ヨーロッパへ旅をすると言ったら、客船でシベリア経由ヨーロッパと言うのが一番格安な料金だったので、他の日本人観光客もこのルートを選んでいた。 横浜からナホトカまでソ連船で行き、ナホトカからハバロフスクまではシベリア鉄道、そしてハバロフスクからモスクワまではアエロフロート機で飛ぶと言う、三種類もの乗り物に乗り継いだ長旅だっただけに、その間知らぬ間に日本人同士意気投合しあい、お互いに自分達の夢を語り合った。
私は、見知らぬ日本人とモスクワまで観光旅行気分でたどり着いたが、その後は全く自分だけとなった。 数日モスクワで滞在し、次はアエロフロート機でフランクフルトへそしてルフトハンザ機に乗り換え、最初の目的地ジュネーブへ飛んだ。
日本からの長旅を終え、私のヨーロッパでの初仕事がジュネーブのオート・サロンからスタートした。 ジュネーブでは、単にヨーロッパの取材雰囲気に慣れる事を目的とした。 撮影後は直ちに夜行列車でマルセーユに向かった。 日本から先に出荷させた車を引き取る為に 数日マルセーユに滞在し、日本郵船で運ばれた私の車 Toyota Corolla をマルセーユ港で見た時は、ただ感無量だった。
無事、車を入手してからは気分的に楽になり、ヨーロッパの美しい町並みを見物しながら、カローラで走行した。
モータースポーツ写真家として、本格的に取材に乗り出した初サーキットは、 West France, Pau near the Pyrenees だった。
当初、日本の JAF (日本自動車連盟)から得た取材情報は、至極簡単で主催地の住所と開催日が通達されただけだった。 フランス語がまるでお手上げだとすると、まず土地感覚と状況判断が必要だった。 取りあえず、後者の方は黙っていても、勘が働く方だったので助かった。 町の人達がする様子を観察していると、成るほどと、うなずく事ばかりだった。 自分が往来していた市街路がレースの期間だけ公道サーキットに、 SNSF (フランス国鉄)ポー駅前の国道が F2 グランプリのスタート地点、そして運動公園がパドックなどと言った具合に、町が一体になってレース気分に浸る光景など正にヨーロッパを象徴するモータースポーツ国だと改めて認識した。
モナコだけが市街地サーキットだと信じていたが、既にこの時代のフランスでは道路網と都市計画は完備していた。 ル・マンを初め、殆ど全てのグランプリ・サーキットは国道、市街地をレース期間だけレース・コースとして使用出来るほど国家、地方自治体、警察などが協力しあってグランプリ・レースを支えていた。
私は、グランプリ・レースに対する町の人々の身についた手際のよさと、意気込みに感心しながら主催者のオートモービル・クラブの門をくぐった。 クラブに入るや否やムッシュ・ホンダと行き成り呼ばれ歓迎された。 それもそのはず、初めて取材にやって来た日本人カメラマンだったし、彼らにとったら歓迎し得るくらいに珍客だった事には間違いなかった。
今度は私の方が自分の目を疑ったぐらいに感激した事が起きた。 1966 年に富士スピードウエイで出会ったジャッキー・スチュワートやロータス・チームのジム・クラーク、グレハム・ヒル等と再会、この年のシーズン開幕第一線に出場しに来ていた。  F2 グランプリとはいえども、 F1 ドライバー勢が殆ど顔を出していた。 見事な顔ぶれの中に、ベテランのジャック・ブラバム、デニス・ハルム等を撮影出来たことはラッキーだった。 又、 F2 で注目を寄せられていた新人のヨヘン・リント、ピアス・カレッジ、ジャッキー・イクスにも出会えた。 それだけではなかった、 1962 年、鈴鹿サーキットのオープン記念レースに招かれて出場したスポルト・オートの編集長、ジャビィ・コロンバックとの出会いは、その後の私のヨーロッパ取材活動に極めて有利となっていった。
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